シフトアップのその先へ

最高の相棒と、どんな道も、どこまでも

光いづこに

実家から、父と母が会いに来てくれました。

11月。四回目の調停に、今度は両親が付き添ってくれることになったのです。

調停の前日、タロウも交えて父と母、4人で食卓を囲みます。

「山形に帰って来ないか」

父が、ポツリと言ってきました。

タロウが高校を卒業したら山形に帰り、家業を手伝いながら父と母と三人で暮らしていけばいいんじゃないか、と言ってくれます。

「う…ん、ちょっと考えさせて…」

私は18歳で実家を出てから、両親とはずっと離れて暮らしてきました。私自身の主婦歴も短くありません。一緒に暮らすとなると、実の親子とはいえ反発し合う事もあるのでは、との不安がありました。

 

それに何より。

そうなるとタロウとは、高校卒業までのあと一年弱しか一緒に暮らせなくなると思ったのです。

私の故郷には、タロウが進学出来るような大学はありません。勿論、就職先も。

せっかく横暴な夫から逃げ出し二人静かに暮らせるようになったのに、すぐに離れ離れになってしまいます。

タロウにとって、山形は自分の故郷ではありません。つまり『帰省』する先ではないのです。普通の家庭の子が進学で一人暮らしを始めるのとは訳が違います。

それは私にとって、耐え難いほどに淋しい事でした。

 

 

 

四回目の調停で、あっさりと離婚が成立しました。

婚姻分担金を払い続けるのが余程嫌だったようで、あちらから離婚を求めて来たのです。

意外だったのは、一度たりとも息子の親権を主張して来なかった事です。

無事に息子の親権が取れた事に、心から安堵しました。

 

 

「おめでと~」

「良かったね~」

「長かったよね~お疲れ様~」

事情を知っている友人達から、口々にお祝いの言葉が発せられます。

ですがよく考えると、離婚して「おめでとう」もおかしな事なのでは、と首を傾げます。

「はいこれ!離婚祝い!」

「え、ありがとう」

…離婚祝い? まぁ、いいのか。と笑います。

私にとって、離婚は確かに『おめでたいこと』なのでした。

 

 

家族のグループLINEでは。

タロウの進路の事など、悩みを思うがままに投下するようになりました。

母『まぁ、その歳になると、親が出来る事なんて限られてくるからね~』

姉『そうそう。進路は自分で調べて決めるんじゃない?』

そして父が、『タロウは家族の一員だ。進学にかかるお金は心配しなくていいから、好きに決めさせてあげなさい』と言ってくれました。

 

母もその言葉に賛同し、兄も姉も、それぞれ家庭を持っているにも関わらず、自分達にも出来ることがあったらなんでもするから遠慮なく頼って!と言ってくれました。

『タロウは、○○家みんなで育てていこうよ。一人で抱え込まなくていいんだからね』

家族からのこの言葉に、張り詰めていた気持ちが一気に弛んでいきました。

 

 

タロウの成長を思い、そこに手を差し伸べてくれる存在が私の他にもある。

それはまるで慈雨のように、私の心身を心地よく潤してくれたのでした。

 

 

残念ながら。

工場での仕事は、退職することになりました。

五度目の休職を医者から勧められたのを伝えた際、「さすがに、うちでこれ以上雇い続けるのは…」と言われたのです。

「私さんが頑張ってくれていたのは分かります。ご家庭の事情もありますし、体調にもなるべく考慮していきたいと思っていました。ですが…」

言いにくそうに言葉を区切りました。

「正直、私さんを『働き手』として見なすことが出来ません。そして、そういう従業員を雇い続ける体力が、ウチみたいな小さな会社にはないんですよ」

「はい。分かっています」

むしろ、何度も休職を繰り返していたのに、これまで雇ってくれていたことに感謝すべきです。

「今までありがとうございました。お世話になりました」

深々と頭を下げました。

結果的に、離婚をするためだけに在籍させていただく形となってしまいました。とても申し訳なく感じます。

 

 

父の申し出を受けることになりました。

タロウの高校卒業と同時に、私は故郷に帰ることにします。

正直、言いようのない淋しさと不安はありますが、それ以外の選択肢がないのが現実です。

 

 

 

調停で元夫は、『妻が遊び歩いていた証拠品』として私の前ブログ、『アクセルグリップ握りしめ』を大量印刷して提出して来ました。

私の弁護士さんは、

「私さんは夫さん以上の時間を外で働き、分担された家事もこなし、生活費だって負担していました。お子さんだってもう大きくなっています。休日に趣味のバイクに乗って何が悪いのですか? 」

と反論してくれました。

元夫側はそれ以上の追及をして来ませんでした。

 

 

離婚が決まり、調停調書のサインを終え、

「長らくお世話になりました。ありがとうございます」

と調停員さんに頭を下げると、

「バイクに乗っておられるんですねぇ。格好良いです」

と笑いかけてくれました。

「あ、はい」

証拠品として提出された私のブログに目を通したからでしょう。

「私、あなたのブログのファンになっちゃいました。これから頑張ってくださいね」

にっこり笑う調停員さんに、私は照れ臭いやら嬉しいやらで、「いえ、そんな…はい」と曖昧な返事しか出来ませんでした。

 

 

ですが。

元夫が私のブログを読み続ける事には抵抗があり、長らく続けていた『アクセルグリップ握りしめ』は閉じる事にしました。

正直、それは残念に思います。 

 

 

 

家庭も、貯蓄も、信頼関係も。

築き上げる側は、膨大な時間と労力をかけ、そして真心を尽くします。

ですが、搾取する側はいともたやすく、一瞬で奪い去っていくのです。それらしい言い訳を並べ、時に自分こそが被害者であるかのような顔まで浮かべて、平然と。そして冷酷に。

 

私が元夫から奪われたもの、失った尊厳は数限りなくあり、逃走と離婚調停を経てようやく得られた息子との安穏な生活も、あとわずか3ヶ月弱しか残されていません。

私の人生は一体何だったのでしょうか。

どうしてもそれを考えてしまいます。

 

 

 

私一人の掌は、守りたいものすら包み込めない程に、小さく、か弱く、そして無力でした。

思うように作動してくれない自身の肉体と精神に、何度歯噛みしたことか分かりません。

 

ですが現在、色々な人達からの助けと優しさを受け、私達親子はなんとか生活出来ています。

 

そっと寄り添ってくれた方、手を差し伸べてくれた方、あたたかい言葉をかけてくれた方。

そして今、このブログを読んでくださっている全ての方々に対して。

人と人との絆を感じ、そこに「ありがとう」の気持ちが溢れ出るたび、じんわり癒されていくのを感じるのです。

 

ありがとうございます。

私は今日も、生きていけています。