三回目の調停は、なんとその3ヶ月後、9月に執り行われることになりました。
遅々として進まぬ離婚話に、気ばかりが焦ってしまいます。
朝起きて目が覚めると、真っ先に「あぁ、私はまだあの人の妻なんだ」と思い絶望するようにまでなりました。
『次の調停、私付き添いに行くよ』
姉がそう電話してきてくれました。
「え、でも遠いでしょ」
姉は特急電車で片道3時間以上の距離に住んでいるのです。
『大丈夫だよ。私ちゃんのところに泊めて』
「それは勿論だけど…。大丈夫? 旦那さんとか、お子さん達とか」
『それは大丈夫。事情を話したら、それは是非付き添ってあげてって旦那も子供達も言ってるから』
正直、それはとても有難い申し出でした。
家庭裁判所に出向くことを考えただけで震えが止まらず、駅からの道のりですら真っ直ぐ歩ける自信すらなくなっていたのです。
「ありがとうお姉ちゃん。じゃあ、お願いするね」
『うん、任せて!』
三回目の調停の頃には、一応また仕事に復帰していました。
ですが病気のせいなのか薬の副作用のせいなのか、ミスを連発してしまい、注意を受けることが多くなっていました。私の病のことを考慮すると、強く叱責していいものかどうか、上司も私の扱いに困っているようでした。
申し訳なく感じながらも仕事に従事させてもらう毎日でした。
そうして、三回目の調停です。
ここでやっと、別居中の配偶者に支払う生活費、つまりは婚姻分担金が決められたのです。
夫婦間には扶養義務が伴います。別居したならば、収入が多い側が少ない側に、生活費を渡さなければいけない義務があるのです。それは法律で明記されている事でした。夫のように多額の負債があるのだとしても、婚姻分担金はお互いの収入負担割合と養っている子供の数のみで決められてしまうものなのです。
夫はそれが分からないのか理解したくないのか、私が勝手に出ていったのだから払う義理はない、と主張してきたようでした。
これ以上ごねるのでしたら審理にかけますよ、と調停員が言ってくれた事で、ようやく夫が話し合いに応じました。
審理にかけられると、裁判長からの執行命令が下り、従わないと強制執行が行われてしまいます。それくらい、婚姻分担金は強制力のあるものなのです。
ようやくこの日、婚姻分担金が決まりました。夫は、別居してから現在に至るまでの分も、遡って私に生活費を支払わなければなりません。
「ありがとぉ~お姉ちゃんが付き添ってくれたお陰だよ~」
待合室に戻ると、話が進んだことに喜び姉に抱きつきます。
「まあね。私は幸運の女神なの」
ふふん、と鼻を鳴らしました。
婚姻分担金が決まった途端、夫は離婚に前のめりになってくれました。
離婚するまで毎月支払わなければいけないので、早く縁を切りたくなったのでしょう。
これまでは、私やタロウに入ってくる扶養手当や給付金関連は、全て夫が当然のように着服してきていました。支払いは私任せで、貰えるお金は全て自分のものとしていたのです。
私は長いことそれを黙認して来ましたが、別居して初めて、それは世間一般では通用しないのだという事を知ったようでした。
ところが。
離婚話が進んだことで私の病気はどんどん良くなっていった、とは残念ながらなりませんでした。
むしろ、離婚調停を通して夫の人間性が露呈してくる程に、私の結婚生活に費やしてしまった時間やお金は一体何だったのだろう、と悔しく感じるようになりました。
夫の、息子への態度も許せませんでした。
別居して9ヶ月後、唐突に息子にショートメールを送りつけてきたのです。
『お前が勝手に出て行った事はもう怒ってないから、連絡を取り合ってやってもいい』から始まり、その後滔々と自分の借金の言い訳を並べ、挙句には『このままだと俺が孤独死するかもしれないぞ』と脅迫めいたことまで書いてありました。
自分の死をチラつかせ、罪悪感を抱かせ人を従わせようとする、彼の常套手段でした。
そして相も変わらず、息子に対して『元気でやっているのか』と気遣う言葉の一つもありません。
タロウは、私にそのメールを見せながらせせら笑うと、
「はいブロック~」
と父親の存在を完全に遮断してしまいました。
「あの人が、ここまで最低な父親だっただなんて…」
私が呆然と言うと、
「え? そんなの分かってた事じゃん」
とタロウがキョトンと答えるのでした。
私は、製造部署から異動になり、検査の仕事に回されました。収入は月に5万円も下がることになりましたが、それもやむを得ません。
今までのような肉体労働ではなく、座り仕事なので体力的には楽なのですが、やはり薬の副作用なのか猛烈な眠気と闘わなければいけません。
そこでも、見落としや単純な数え間違いなどのミスを連発してしまいます。どんなに集中しているつもりでもミスを繰り返してしまうことに、反省と悔しさを抱きました。
仕事中、夫からされてきたことが急にフラッシュバックし、涙が止まらず呼吸が苦しくなり、早退してしまう事までありました。
「もう3ヶ月、休職してみましょうか」
お医者さんの見立てで、またも休職することになりました。
処方された薬も飲んでいるのに、ちゃんと休職期間中も休んでいたのに、何故私の病気は快方に向かっていかないのでしょうか。
寝てばかりが良くないのかと、無理に散歩に出ては動悸がして蹲る事になったり、何か楽しい事を探せばいいのかと片っ端から本を読み漁っては、夫を思い出す描写にフラッシュバックしてしまったり。
ただただ足掻いてばかりいました。
そんな時。
『ちうさん、フューリーでちょっと出掛けてみない?』
ヨシさんから連絡がありました。
「フューリーで?」
セローではなくフューリーで、という事は、タンデムで乗せていってくれるという意味なのでしょう。
確かに。私は今、セローに跨る気にはなれません。後ろに乗せてもらって出掛けるだけなら、何とか出来そうだと思いました。
行先は片道30分ほどのサービスエリア。そこは、飲食店が美味しいと評判だったのです。
ヨシさんは、ツーリングがてらそこで美味しいものでも食べよう、と提案してくれました。
タンデムとはいえ、久々のバイクで受けた風は心地いいなと素直に感じる事が出来ました。
バイクから伝わる振動やマフラーから流れ出る排気音、カーブの度に傾く車体等、全てが懐かしく感じられました。