「静か」
「…だね」
森閑とした店屋通りの階段道で、私とヨシさんは歩きながらそう言い合いました。
そこは江ノ島内の小路。
元来なら立ち並ぶ店屋と観光客とで賑やかな通りなのですが、着いた時刻が早朝だった為、まだ辺りはひっそりとしていました。
私達は朝のひんやりとした空気を感じながら、渋滞を抜けセローでやって来たのです。
ツーリングの打ち合わせをした際、
「え、また江ノ島でいいの?」
とヨシさんから聞かれました。
私がつい先日、雪さんと江ノ島ツーリングに行ったばかりだったからでしょう。
「うん。フォロワーさんが教えてくれた江ノ島内のショートカットコースも気になるし」
それに…。
と、それ以降の言葉は飲み込みます。
ヨシさんが私とツーリングに費やせる時間は半日だけです。遠出して、あまり無理をさせたくもありませんでした。
「あっ。猫だよ」
「え、どこどこ?」
ヨシさんの言葉に見回すと、確かに前方で茶色い猫が伸びをしていました。
「逃げちゃうかなぁ?」
ワクワクしながら近付きますが、猫は逃げることなく日向ぼっこを続けていました。
そっと撫で撫ですると目を細めてくれます。
「可愛い…癒される」
あまり撫で回すのも悪いので、猫ちゃんに手を振ってその場を後にしました。
「あっ。ここじゃない?」
「おぉ。ホントだ~」
それはフォロワーさんが教えてくれたショートカットの分岐点でした。
確かに、教えて貰わなければ絶対に入らないような小路です。
「いいね~。ここも何だか魅惑的な道」
私の言葉に、
「そうだね。こんな江ノ島は初めて見たよ」
とヨシさんも同意してくれました。
地元住民の方々が通るような小路を、ゆっくり下って行きます。
入り口付近に戻る頃には、店屋も開いており観光客も来て活気に溢れていました。いつもの江ノ島の光景です。
「あ、ねぇねぇ」
たこせんべいを購入したヨシさんに声を掛けます。
「あっちの、海の畔の方に行きたい」
「うん、いいよ~」
私達は、セローを駐輪した場所を通り過ぎ、道のどん詰まりまで歩くや駐車場奥にある階段を登ります。
「痛い痛い痛い! え~、ちうさんマジで? これ平気なの?」
そこには、長い足つぼマッサージロードがあるのです。
私達はブーツを脱いでそこを歩き始めたのですが、ヨシさんは早くも悲鳴を上げ始めます。私は笑いを堪えながらそんなヨシさんに歩調を合わせました。
「いや、私も痛いには痛いけどさ。そんな我慢できない程じゃないかな」
「マジか。体重差? 体重差のハンデがあるからだな」
おりゃ、と私の肩に体重を掛けてきましたが、私の足裏には何ら影響はありませんでした。
「もぉ、先行っちゃうよ~」
私がスタスタ歩いて行くと、遥か後方でヨシさんが「マジか~。痛すぎる~」
と手摺に掴まりながら怖々と歩いて来ていました。
「さて、足裏の懲りも解れたことだし」
ベンチに腰掛け脱いでいたブーツを履きます。
「長閑だねぇ」
自販機で購入した麦茶をひと口飲んで言いました。
潮風は冬の気配を孕んでいますが、太陽の光がポカポカと身体をあたためてくれています。
その心地良さからでしょうか、
「私、山形に行くまでの数ヶ月は、もっとヨシさんとツーリング出来ると思っていたなぁ」
思わず、言葉が零れ落ちてしまいました。
「体調崩しちゃったからね…」
ヨシさんが、少しだけ申し訳なさそうに顔を歪めました。その表情が「ごめんね」と言わんばかりだったので、私は慌てて話題を変えます。
「あ。それで、体調はどう? 療養生活は落ち着いてる?」
「うん、だいぶ落ち着いたかな。でも…」
短期間でどうこうなるものでもないし、と続けました。
「そう、だね…」
ヨシさんが病気療養の為に、関東圏から出て静岡の浜松市に滞在するようになってから、はや半月が経とうとしていました。
今回は一時帰宅しただけなので、今日この後すぐに戻って行ってしまいます。
いくら静岡県がお隣とはいえ、浜松市ともなると私にとっては遠方です。高速を使っても片道3時間以上はかかるのです。
それに。
ヨシさんの病状悪化に気付き、主治医の勧めに従い療養するよう強く進言したのも他ならぬ私自身なのです。
私と関わることすらヨシさんの負担になってしまうのではと、距離を取ることに決めていました。
「人生は、何がどうなるか分からないものだね」
ヨシさんが、ポツリと呟きました。
唐突に。
息子が幼児だった頃の事を思い出しました。
「お買い物行くから、それは置いて行こう?」
息子は、買ってもらったばかりの大きなトラックの玩具を両手に抱え、口をへの字にして首を横に振り、頑なにそれを離そうとしません。
ああ、これは無理だなぁと諦めます。
「じゃあ、それ持って行ってもいいから。でも、絶対に自分で持つんだよ? お母さんは持たないけど、それでもいい?」
大きく頷く息子を連れて、徒歩で買い物に行きます。
スーパーで買い物カゴに食品を入れる私の後ろを、息子は黙って付いて来ていました。
ですが、帰り道に隣を見遣ると、トラックの玩具を両手に抱え歩きながら、コクコクと眠りかけていたのです。
やっぱり、と思いました。小さな身体で、ずっと大きな玩具を抱え続けるのはきっと辛かったのでしょう。
ふぅ、とため息を吐き、
「ほら、おいで」
と息子を玩具ごと抱え上げました。
片腕には食材の入った買い物袋、もう片方の腕には息子の体重がのしかかります。
その時の私は、ただ「重い」としか感じませんでした。
ですが。
今でも時々思い出すのです。
あの時の息子の、柔らかな髪の毛や丸いほっぺ、幼児特有の体温と健気に玩具を離さない頑固さ。そして、安心しきったように身を預けてくれたその身体の重みまで。
その全てが愛おしいものでした。
ですが、今やどんなに渇望しても、二度とあの瞬間には戻れないのです。
あの頃はただひたすら奮闘し、育児に追われる毎日でした。でも思い返せば貴重な時間だったのです。
あの時間を、ほんの一瞬だけでももう一度体験する事が叶うのならば、私はどんな事だってしたいくらいです。
水平線を眺めながら、じゃあ、今この瞬間はどうなんだろう?と考えます。
未来の私は今のこの時間を、もう一度だけでいいから、ほんの一瞬でもいいから取り戻したい、と渇望してやまなくなっているのでしょうか。
それとも、「そんな時代もあったよねぇ」と懐かしむ、数ある思い出の一場面となってくれているのでしょうか。
未来は誰にも分かりません。
時間は、全ての事物に平等に刻まれていきます。
それが残酷な事なのか優しい事なのか、それすら誰にも分からないのです。
私はあと何回、この太平洋を眺めることが出来るのだろう───。
願わくば、一つ一つの瞬間を大切に生きていきたい。
そう思いながら、陽光煌めく水平線を、ただひたすらに眺め続けていたのでした。