シフトアップのその先へ

最高の相棒と、どんな道も、どこまでも

性差の悖理~三浦半島ツーリング 前編

今年の冬は、バイクのバッテリーメンテや私自身の運動不足解消も兼ねて、江ノ島へのツーリングが主流となりました。江ノ島内の階段を行き来したお陰で足腰は鍛えられましたが、ツーリングが少々マンネリ化していた感は否めませんでした。

なので、今回は少しだけ行き先を変えることにしたのです。

それは2月三連休の最終日。

早朝に合流した私とヨシさんは、インカムを繋いで走り出します。

 

 

『お~サブい。電熱線あって良かったよ』

「大丈夫? ヨシさん朝早かったもんね」

毎回夜明け前から走り始めているヨシさんにとって、電熱線は欠かせないアイテムのようでした。

 

 

国道476号線から134号線に入り、海沿いに出ます。

『いや~。やっぱ海はいいねぇ』

ヨシさんの言葉に同意します。

今日は波も静かで、海面がキラキラしていました。時間帯も早いので、道も空いています。

そうして伸びやかに走り進め、三浦半島に入りました。

『この辺、前にソフトクリーム食べた牧場の近くだよね』

「あぁ、そうだねぇ」

今回のツーリングでも食べに行こうかと考えていましたが、残念ながら今日は定休日だったのです。

そこを通り過ぎ、細い小道に入り込んでいきます。

 

『さぁ、始まるよ』

「ううっ。大丈夫かなぁ?」

これから始まるダートに身構えてしまいます。

ヨシさんが調べてくれていた通り、その砂利道は比較的フラットでした。このくらいなら大丈夫、と安堵しながら進みます。

 

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やがて、強固なゲートで道は閉ざされていました。

『う~ん、やっぱりそうか』

神奈川の林道は不法投棄対策で、関係者以外が立ち入れないよう固くゲートが閉ざされている事が多いのです。

やむなく引き返す事にします。

「え、待って…」

周囲を見回し私がたじろぎます。

「この道幅でUターン出来る?」

 

ヨシさんは降車すると、セローの車体を持ち上げ、スタンド部分に重量を載せるや、そこを起点にくるっと方向転換していました。

私もその真似をしようと試みますが、スタンドに重量を載せるどころかセローをほんの少しだけ持ち上げる事すら出来ません。

「あ~大丈夫大丈夫。俺がやるから」

とヨシさんが同じ方法であっさり方向転換してくれました。

むぅ…。としつつも、

「ありがとう」

とお礼を言います。

『よし、じゃあ行こうか』

「うん」

 

 

走り始めてしばらく、考えに耽っていた私はおもむろに口を開きました。

「ねぇ。何故人類は女性の方が力が弱いんだろう?」

『どうした急に?』

「だって…」

まだ頭の中でまとまっていない考えを、整理しながら話しました。

「だって、男性の方が力があるが故に性的暴行という犯罪が起こってしまうんでしょ。男性の側は性行為によって妊娠することは絶対にないのに。何故子を孕む女性の方が、力が弱く出来ちゃっているんだろうと思って」

『あぁ、カマキリとかはそうだよね。雌の方が身体も大きく力が強い。雄は雌に選ばれる立場だ』

「でしょう? それが理想的だよねぇ。確か、熊もそうだよね」

以前動画で見た熊の生態を思い出しながら話します。

「熊は交尾すると、雌は雄とは別れ一頭で出産と子育てをするんだよね。そして雄熊は、そんな雌熊と交尾したい一心で、邪魔となる小熊を殺そうとするんだって」

雄熊、ほんっと最低だな…。と内心付け加えます。

「雌…母熊はね、小熊を守るために雄と必死で闘うんだよ。それこそ死に物狂いで」

私が動画で見たその雌熊は、雄を撃退し、我が子と自身の貞操を見事守り抜いたのでした。

「何故人類の女性にもそんな力が付与されなかったんだろう? 自分の身や我が子を守り抜く為に、男性に匹敵するほどの力が備えられていれば良かったのに」

『う~ん、何でだろうね?』

首を傾げるヨシさんの後ろ姿を見ながら、以前筋トレや総合格闘技で身体を鍛えていた時のことを思い出しました。

どんなに鍛え、どんなに追い込み高重量のバーベルが上げられるようになって喜んでも、それは精々一般男性の平均レベルにすぎなかったのです。

格闘技でも、私がどんなに必死に鍛錬を積んでも、所詮男性には敵いませんでした。

そもそもの身体の大きさ、体重そのものが全然違うのだということを痛感させられただけとなったのです。

 

 

先程セローを軽々と持ち上げたヨシさんも、特に身体を鍛えているわけではありません。

何故私が全力になってもビクとも動かなかったセローを、そんなヨシさんが軽々持ち上げられたのか。

なんだかそれが、とても不条理な事に感じられたのです。

 

 

『さぁ、着いたよ』

目的地、荒崎公園に到着します。

バイクを停めて降車するや、身につけていた装備品を外します。

ヘルメットを脱いだ途端、顔面と頭部に冷気を感じ取りました。

「寒いね~」

「だね。なんかあったかいの買おうか。ちうさん何がいい?」

自販機を前に尋ねるヨシさんに、「これかな?」とコーンポタージュの缶を指差します。

「お、いいねぇ。俺もそれにしよ」

あたたかい小さな缶をそれぞれ両手にくるみ、歩き始めます。

「大丈夫? 足元悪いから気を付けて」

振り返りながら言うヨシさんに「うん」と頷きながら、『違う』と不意に気付きました。

 

 

私は男性よりも力が弱いことを嘆きたかったんじゃない、と思ったのです。

 

ヨシさんと知り合うまで。

参加したマスツーリングにいた男性ライダーから自宅近くまで勝手に付いて来られたり、ツーリング先で声を掛けられ3時間も時間を取られたりした事がありました。「ではそろそろ」と別れの言葉を何度口にしても、その男性ライダーは中々解放してくれず、ひどく困惑し、そして恐怖したものです。

 

「なら、一緒に走りましょう。困った事があったらいつでも頼って」

そう言ってくれたヨシさんと出逢い一緒に走るようになってから、そんな怖い思いをする事はピタリとなくなりました。

それどころかさっきのように、セローの取り回しで困った時にはさっと助けてくれるようになったのです。

 

 

山形に帰ったら、私はまたソロで走る事になるんだ──。

私のツーリングの要とも言えるヨシさんとは、もう一緒に走れない。

その現実に、不安で押し潰されそうになっていました。

湘南アートツーリング

あ、江ノ電だ。

ミラーを確認すると、後方から江ノ電こと江ノ島電鉄の車両が近付いて来ているのが分かりました。

 

国道467号線。

そこは街中を走る江ノ電と一般車両とが一緒に走る道路なのです。

どうしよう、と一瞬考えます。

これまでにも江ノ電と並走した事はありましたが、すぐ手前の箇所ではレールと一般車両の道とが交差されていました。

私はこの道が、電車優先なのか一般車両と同じように走っていいのか、その判断が付かずアクセルを緩めました。

と、途端に後ろの乗用車から煽られてしまいます。

あ、行ってもいいんだ?

どうやら走っている順で進んでいいものらしいと分かり、私はすぐさまアクセルを戻しました。

 

 

 

 

国道134号線に入ると、綺麗な青空と海が広がっていました。

何度も走って来たからでしょう。この道に来るとホッとします。爽やかな潮風を受けながら滑らかに走り抜けます。

 

 

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道を折れ、何の変哲もない住宅地に入り込みました。

そこは車通りも殆どなく堤防も低いため、海を背景にバイク写真を撮るのに最適なのです。雪山の富士山も見えました。

ひとしきり愛車の撮影会を終えると、本日の目的地へと向かいます。

 

 

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神奈川県立美術館は、有難いことにバイクの駐輪は無料です。

セローを停めるや、バイク装備を外していきます。

12月なので、迷うことなく完全冬装備で来ましたが、この格好のまま暖房のきいた館内を歩いたら確実に暑くなります。

冬用ジャケットやネックウォーマーは脱いで積載し、館内に持って行くものを整理しました。

そこで気付きました。マスクを忘れて来てしまったのです。

まぁ、大丈夫かな?

一時期に比べマスクは自主性に任せられるようになりました。マスク無しでの入館を断られることはまずないでしょう。

 

 

清潔なロビーを抜けると、企画展のチケットを購入します。

 

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『移動するモダニズム展』。

好きな画家さんの出展もあるので、是非観に来たいと思っていました。

 

 

数々の展示作品をじっくりと観て回ります。

妖艶なものから日常のコミカルな一場面、凄惨な光景まで。様々なジャンルの作品が展示されていました。

関東大震災がテーマの作品では、瓦礫の下に挟まれ苦痛に呻く人々の姿も描かれています。

どうなんだろう?と私は首を傾げました。

震災と言えば東日本大震災、もしくは阪神淡路大震災を思い浮かべます。

もし、その震災の苦悶に喘ぐ人々を描き、『作品』として売り出すアーティストがいたなら。現代ならば世間から『不謹慎』との謗りを受けるのではないのでしょうか。

この時代は今とは感覚が違ったのかもしれない。そう思うと、そこにも年代差を感じてしまいました。

 

 

 

観覧が済むと、庭園を散策します。

 

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海辺に建てられた美術館の為、庭園からは砂浜と海が綺麗に見渡せます。

 

私はベンチに腰掛け、ふぅ、と息を吐きました。

暑気あたりという言葉がありますが、熱気のようなものにあたったような独特の疲労感がありました。

思えば、それほど時間が経過した自覚もなかったのに二時間近くも観覧していたのです。

 

 

画家の一人一人が、人生を賭け魂を込めて描かれる作品郡。

その一つ一つに魅入り、時代背景や作者の人生観にまで考えを巡らせ多角面から鑑賞して周ります。自分にはない非日常の世界観。そこに入り込ませてもらうのです。

そのせいでしょう。美術館での観覧後に、こういった疲労感に見舞われる事は少なくありませんでした。

 

 

今日この後どうしようかなぁ?と考えますが、この疲労を伴ったまま走り続ける気にはなれませんでした。

気ままに走り出せ、自分本位に中断出来るのもソロツーリングのいい所です。

今日はこのまま帰ることにします。

 

 

バイクに戻るや外していた冬用装備を身に着けます。

ナビを自宅にセットするや、来た道を戻りに走り出しました。

 

 

ビーチと言えば、冬は閑散としているイメージですが、湘南の海は年中賑わっています。

サーファー達が波乗りを楽しんでいますし、親子連れやカップルと思しき人達が砂浜を散策している姿も散見されました。

平和な光景だなぁと感じます。

 

 

走りながら、先程観て来た展示作品のことを考えます。

明治から大正、昭和初期にかけて。

まさに、激動の時代とも言えるでしょう。

政治経済の変遷と共に人々の生活様式も大きく変わり、そしてそれは芸術作品にも多大なる影響を与えていきます。

それまでの芸術の在り方が見直され、日本の芸術家達はこぞって海外に出帆し、新しい表現技法を習得していきました。

 

 

 

時代の変遷。

平成から令和に元号が変わり、もうすぐ6年が経とうとしています。

明治大正の頃と比べれば、平成から令和への移行など、さほどの違いがあるようには感じられませんでした。

 

 

ですがよく考えてみたら。

侵略戦争が勃発し、物価が高騰しました。税金と社会保険料が上がり、年金の受給額もどんどん減ってきています。

そして新型コロナウィルスの蔓延。

 

思えば、あの美術館も。

初めて行った時にはコロナの影響で臨時休館となっており、庭園を散策する事しか出来ませんでした。

二度目の時には入館こそ可能だったものの、常設展示のみで企画展は取り止め、再開の目処すら未定だったのです。

今日、当たり前のように企画展が観覧出来、しかもマスクなしでも問題なく入館出来たのは、当時からすれば考えられない変化でしょう。

 

 

暗いニュースばかりですし、人々の生活は苦しく現代は決して明るい時代とは言い難いのかもしれません。

それでも私は、飢える事も凍えることもなく生活していけています。

それどころか、こうしてお天道様の下で趣味のバイクを楽しませて貰っているのです。

 

 

『足るを知る者は富む』

 

昨日に続く今日がある。

その当たり前の日常に感謝しよう。

そう思いながら、軽快にセローを走らせたのでした。

時の煌めき

「静か」

「…だね」

森閑とした店屋通りの階段道で、私とヨシさんは歩きながらそう言い合いました。

 

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そこは江ノ島内の小路。

元来なら立ち並ぶ店屋と観光客とで賑やかな通りなのですが、着いた時刻が早朝だった為、まだ辺りはひっそりとしていました。

 

 

私達は朝のひんやりとした空気を感じながら、渋滞を抜けセローでやって来たのです。

ツーリングの打ち合わせをした際、

「え、また江ノ島でいいの?」

とヨシさんから聞かれました。

私がつい先日、雪さんと江ノ島ツーリングに行ったばかりだったからでしょう。

「うん。フォロワーさんが教えてくれた江ノ島内のショートカットコースも気になるし」

それに…。

と、それ以降の言葉は飲み込みます。

ヨシさんが私とツーリングに費やせる時間は半日だけです。遠出して、あまり無理をさせたくもありませんでした。

 

 

「あっ。猫だよ」

「え、どこどこ?」

ヨシさんの言葉に見回すと、確かに前方で茶色い猫が伸びをしていました。

「逃げちゃうかなぁ?」

ワクワクしながら近付きますが、猫は逃げることなく日向ぼっこを続けていました。

そっと撫で撫ですると目を細めてくれます。

 

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「可愛い…癒される」

あまり撫で回すのも悪いので、猫ちゃんに手を振ってその場を後にしました。

 

 

「あっ。ここじゃない?」

「おぉ。ホントだ~」

それはフォロワーさんが教えてくれたショートカットの分岐点でした。

確かに、教えて貰わなければ絶対に入らないような小路です。

「いいね~。ここも何だか魅惑的な道」

私の言葉に、

「そうだね。こんな江ノ島は初めて見たよ」

とヨシさんも同意してくれました。

地元住民の方々が通るような小路を、ゆっくり下って行きます。

 

 

 

入り口付近に戻る頃には、店屋も開いており観光客も来て活気に溢れていました。いつもの江ノ島の光景です。

「あ、ねぇねぇ」

たこせんべいを購入したヨシさんに声を掛けます。

「あっちの、海の畔の方に行きたい」

「うん、いいよ~」

私達は、セローを駐輪した場所を通り過ぎ、道のどん詰まりまで歩くや駐車場奥にある階段を登ります。

 

 

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「痛い痛い痛い! え~、ちうさんマジで? これ平気なの?」

そこには、長い足つぼマッサージロードがあるのです。

私達はブーツを脱いでそこを歩き始めたのですが、ヨシさんは早くも悲鳴を上げ始めます。私は笑いを堪えながらそんなヨシさんに歩調を合わせました。

「いや、私も痛いには痛いけどさ。そんな我慢できない程じゃないかな」

「マジか。体重差? 体重差のハンデがあるからだな」

おりゃ、と私の肩に体重を掛けてきましたが、私の足裏には何ら影響はありませんでした。

「もぉ、先行っちゃうよ~」

私がスタスタ歩いて行くと、遥か後方でヨシさんが「マジか~。痛すぎる~」

と手摺に掴まりながら怖々と歩いて来ていました。

 

 

「さて、足裏の懲りも解れたことだし」

ベンチに腰掛け脱いでいたブーツを履きます。

 

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「長閑だねぇ」

自販機で購入した麦茶をひと口飲んで言いました。

 

 

潮風は冬の気配を孕んでいますが、太陽の光がポカポカと身体をあたためてくれています。

その心地良さからでしょうか、

「私、山形に行くまでの数ヶ月は、もっとヨシさんとツーリング出来ると思っていたなぁ」

思わず、言葉が零れ落ちてしまいました。

「体調崩しちゃったからね…」

ヨシさんが、少しだけ申し訳なさそうに顔を歪めました。その表情が「ごめんね」と言わんばかりだったので、私は慌てて話題を変えます。

「あ。それで、体調はどう? 療養生活は落ち着いてる?」

「うん、だいぶ落ち着いたかな。でも…」

短期間でどうこうなるものでもないし、と続けました。

「そう、だね…」

 

 

 

ヨシさんが病気療養の為に、関東圏から出て静岡の浜松市に滞在するようになってから、はや半月が経とうとしていました。

今回は一時帰宅しただけなので、今日この後すぐに戻って行ってしまいます。

いくら静岡県がお隣とはいえ、浜松市ともなると私にとっては遠方です。高速を使っても片道3時間以上はかかるのです。

それに。

ヨシさんの病状悪化に気付き、主治医の勧めに従い療養するよう強く進言したのも他ならぬ私自身なのです。

私と関わることすらヨシさんの負担になってしまうのではと、距離を取ることに決めていました。

 

 

「人生は、何がどうなるか分からないものだね」

ヨシさんが、ポツリと呟きました。

 

 

唐突に。

息子が幼児だった頃の事を思い出しました。

「お買い物行くから、それは置いて行こう?」

息子は、買ってもらったばかりの大きなトラックの玩具を両手に抱え、口をへの字にして首を横に振り、頑なにそれを離そうとしません。

ああ、これは無理だなぁと諦めます。

「じゃあ、それ持って行ってもいいから。でも、絶対に自分で持つんだよ? お母さんは持たないけど、それでもいい?」

大きく頷く息子を連れて、徒歩で買い物に行きます。

スーパーで買い物カゴに食品を入れる私の後ろを、息子は黙って付いて来ていました。

ですが、帰り道に隣を見遣ると、トラックの玩具を両手に抱え歩きながら、コクコクと眠りかけていたのです。

やっぱり、と思いました。小さな身体で、ずっと大きな玩具を抱え続けるのはきっと辛かったのでしょう。

ふぅ、とため息を吐き、

「ほら、おいで」

と息子を玩具ごと抱え上げました。

片腕には食材の入った買い物袋、もう片方の腕には息子の体重がのしかかります。

その時の私は、ただ「重い」としか感じませんでした。

 

 

ですが。

今でも時々思い出すのです。

あの時の息子の、柔らかな髪の毛や丸いほっぺ、幼児特有の体温と健気に玩具を離さない頑固さ。そして、安心しきったように身を預けてくれたその身体の重みまで。

その全てが愛おしいものでした。

ですが、今やどんなに渇望しても、二度とあの瞬間には戻れないのです。

あの頃はただひたすら奮闘し、育児に追われる毎日でした。でも思い返せば貴重な時間だったのです。

あの時間を、ほんの一瞬だけでももう一度体験する事が叶うのならば、私はどんな事だってしたいくらいです。

 

 

水平線を眺めながら、じゃあ、今この瞬間はどうなんだろう?と考えます。

未来の私は今のこの時間を、もう一度だけでいいから、ほんの一瞬でもいいから取り戻したい、と渇望してやまなくなっているのでしょうか。

それとも、「そんな時代もあったよねぇ」と懐かしむ、数ある思い出の一場面となってくれているのでしょうか。

 

 

未来は誰にも分かりません。

時間は、全ての事物に平等に刻まれていきます。

それが残酷な事なのか優しい事なのか、それすら誰にも分からないのです。

 

 

 

私はあと何回、この太平洋を眺めることが出来るのだろう───。

 

願わくば、一つ一つの瞬間を大切に生きていきたい。

そう思いながら、陽光煌めく水平線を、ただひたすらに眺め続けていたのでした。

江ノ島デートツーリング~後編

狭い階段道の道端には、店屋が立ち並んでいます。

「お団子美味しいですよ~。食べて行きませんか」

「お飲み物だけでもどうですか~?」

各店の店員さんから呼びかけられますが、私達は曖昧な笑みを浮かべてそこを通り過ぎていきます。

 

階段の踊り場からは海が見えました。

 

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階段を降りて行くほどに、海が近付いて来ます。

「あ、釣りしてる人がいる~」

雪さんの言葉に見渡すと、確かに岩場で釣りをしている人が沢山いました。

 

 

やがて江ノ島岩屋に辿り着きました。

波の侵食によって出来た天然の洞窟なのですが、入洞料がかかるのでその手前で引き返します。

 

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釣り人達のいる岩場近くまで歩くと、江ノ島の入口まで運んでもらえる有料の定期船が出ていました。

ですが雪さんはくるりと振り返り、

「さて、では引き返しますか」

と言いました。

おぉ…マジですか。と内心驚きつつ、私も来た道を引き返します。

 

 

先程まで長らく下ってきた階段を、今度は延々と登らなければなりません。

思えば、過去に江ノ島に来た時には『エスカー』と呼ばれる展望灯までの有料エスカレーターを利用し、その後の長い階段を降りて来たらこの定期船に乗船して入り口付近まで戻っていました。

江ノ島全ての行程を自らの脚で歩むのは初めての事かもしれません。

 

 

登り階段では半端ないくらいに息切れしました。心臓が口から飛び出しそうです。

「ちょっと…休憩しますか」

「で、ですね…」

私達は階段途中の平坦な木陰で、手摺に凭れて乱れた呼吸を整えました。

と、背後からカサカサっと、音が聞こえます。

「あっ、リスですよ」

雪さんが背後の雑木林を指差しました。

「ホントだ…」

一匹のリスが、木の枝をするすると移動しています。やがてその姿が見えなくなると、更に別のリスが現れました。

「野生のリス…ですかね?」

私が問うと、

「そうなんじゃないですかね? ここ、餌がいっぱいあるのかも。あっ、またいた」

「ホントだ、一体何匹いるんだろう?」

リスは生き生きと、枝から枝へと飛び回っています。結局、全部で5、6匹のリスを見ることが出来ました。

その事に、私は妙に深い感慨を抱きました。

 

疲労を感じ、歩みを止めたからこそ目にする事の出来た光景。

それは人生においてもままある事なのかもしれません。

 

 

私と雪さんはそうやって、休み休みに長い階段を登りきり、また広場に戻って来ました。

「何か飲みません?」

雪さんの言葉にすかさず同意します。

長い登り階段に、結構汗もかきました。

それぞれ自販機で飲み物を買うと、売店でたこせんべいも購入しました。

 

 

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2枚入りだったので、2人で分けて食べます。焼き立てのたこせんべいはまだホクホクで、そして風で折れそうなくらいに儚げでした。

「そうそう! 雪さん、SSTRはどうでしたか?」

食べながら、ずっと気になっていた事を訊ねます。

 

SSTRとは、日の出と同時に太平洋側を出発し、日の入りまでに日本海側の千里浜なぎさドライブウェイをゴール地点とする、ライダー人気の一大イベントです。

雪さんがそれに参加し、無事ゴールした事はSNSの発信で把握していましたが、詳しい話はまだ聞けずにいました。

「うん。楽しかったよ~」

「出発日、結構な雨みたいでしたが大丈夫でした?」

「あぁ、そうそう! 出る時は小雨程度だったんだけど、段々雨が強くなって来て。しかも、結構寒い日だったから大変だった」

雪さんが思い出を語ります。

それでも、天候が少しずつ回復して来てくれた事、太平洋側から日本海側まで一日で走り抜けられた達成感、そして無事ゴールが出来た感動。

全てがいい思い出となったと楽しそうに語ってくれました。

 

 

さてバイクに戻ろうか、と歩みを進めると、また先程の猫が歩いていました。

「あ」

周囲の子供達が触りたそうにうずうずしているので、また逃げちゃうかなぁと眺めていたら、立ち止まってくれました。

 

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そっと近付いて写真を撮らせてもらいます。

「いい写真が撮れました」

私がほくほくしながら笑うと、「良かった、目的が達成出来ましたね」と雪さんも微笑みかけてくれました。

 

 

雪さんのセローのエンジンが無事かかるのか、心配していましたが問題なくかかってくれました。

 

 

その後はレストランに入ってゆっくりランチを楽しみます。

「山形って遠いですよね…。セローは持って行くんですか?」

「勿論です」

私はきっぱり答え、「でも…」と続けます。

「母がバイク乗る事に反対してるんですよねぇ。あんな危ない物に乗ってるだなんて!って」

それでもバイクには乗り続けるつもりですけどね、と笑います。

「それより、地元に帰ったら私、車運転しなくちゃいけないんですよぉ。私、車はペーパードライバーなんで、そっちの方が心配です」

「え、そうなんですか?」

「はい。18歳で免許を取ってから、一度も車を所持した事がないんで。前に走るのは出来ると思うんですが、バックが…。ただでさえ教習所時代、車庫入れが出来なくて仮免3回も落とされてるのに」

「それは…確かに心配ですね」

苦笑されてしまいました。

 

 

 

デザートに注文していたダブルソフトクリームが届きました。

 

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「すごいすごい! 美味しそうですね~」

「やっぱり、ツーリングと言えばソフトクリームですよね」

「え、そうなんですか?」

雪さんの言葉に、キョトンと聞き返します。

「そうですよ~。ソフトクリームはライダーの義務です」

「ぎ、義務ですか。バイク歴4年でそれ、初めて知りましたよ」

確かに、ご当地ソフトクリームが各SAや道の駅で販売されています。それを味わうのもまたツーリングの醍醐味なのかもしれません。

笑い合いながら、そのソフトクリームもペロリと平らげました。

 

 

 

「では、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、気を付けて帰ってね~」

手を振り合って別れます。

 

ニーグリップした時に。

脚全体のダル重さを感じながら、あぁ、明日はきっと筋肉痛なんだろうなぁ。と、どこか楽しく感じながら帰って行ったのでした。

江ノ島デートツーリング~前編

11月下旬。

朝晩が冷え込むようになりました。

目覚める時刻になっても、それまで身体をぬくぬくとあたためてくれていたお布団から抜け出すのには、中々の気合いを要する季節となります。

 

でも、今朝は違いました。

目覚ましアラームが鳴る前からスッキリと目が覚め、起き上がるやシャッとカーテンを開きます。

窓ガラス越しに朝ぼらけの冷気を感じ取っても、気持ちは高鳴るばかりでした。

 

 

朝食と掃除等、朝のルーティンワークを終えると、そそくさとバイク装備を身に着けます。

秋用の薄手のジャケットにしようか、真冬用のそれにしようか、ギリギリまで迷いましたが、結局真冬用のを装備することにしました。暑ければ脱げばいいけれど、寒さは調整出来ないからです。

ヘルメットを装着し、セローのカバーを外すやエンジンを始動させます。

 

 

「おはようございまーす!」

集合場所に、雪さんのセローが滑り込んできます。「今日はよろしくお願いします」と続けようとしましたが、雪さんはヘルメットのシールドを開けるや、

「ちうさん、ごめーん。今朝この子、エンジンの掛かりが悪くて…。エンジン切っちゃったらまた掛からないかもなの。このまま出発でもいい?」

申し訳なさそうに言いました。

「え、それは大変! はい、じゃすぐに出発しましょう」

気温が低くなるとよくある事ですよね~と言い合いながら、そそくさと準備し、慌ただしく発進しました。

 

 

雪さんの先導で、街中を走り抜けていきます。

 

今日はバイク女子仲間、雪さんとのデートツーリングです。

雪さんとはランチ会をしたり自宅に遊びに来てもらったり旅先のお土産を頂いたりと、交流を続けさせていただいていました。

でもバイク絡みではなかったので、このブログに登場する機会は中々なかったのです。

今回久々に一緒にツーリングする事が出来て、嬉しく思います。

 

インカムを繋げられないので、赤信号で隣合うたびに、シールドを上げて会話し合いました。

なんだかそれも新鮮に感じます。

その都度頬に冷気を感じたので、冬用のジャケットを着てきて良かった、と思いました。

 

 

国道134号線に入るやのびのびと走り抜け、『江ノ島入口』交差点を折れていきます。

そう。

今日の目的地は江ノ島です。

 

江ノ島は有名な観光地であり、ライダーにとっても人気のツーリングスポットではありますが、神奈川県内に住んでいるライダーはそう滅多に行かなくなってしまいます。

近すぎるからというのもあるのでしょうが、そこまでの道のりが渋滞していて、のびやかな走りが中々出来ないから、というのが大きな理由なのかと思っています。

それでも、今日のツーリング先に私達が江ノ島を選んだのには理由があったのです。

 

 

駐輪場にお互いのセローを停めて、ヘルメットを脱ぐや、ようやくゆっくりと挨拶が出来ます。

歩くとなると今度は暑すぎるので、バイク用のジャケットは脱いで行く事にしました。

 

 

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「ちうさんと初めて会った時も江ノ島でしたよね~」

歩きながら、雪さんが言ってきました。

「そうでしたね。いやぁ、あの時は酷い土砂降りでした」

懐かしく思い出しながら目を細めます。

「あの時、あまりにも雨が降って来たんでヨシローさんと3人で、ヘルメットを被って江ノ島内を歩きましたよね」

「そうそう! あれ、見た人はギョッとしたでしょうね」

笑い合います。

 

 

「いるかなぁ?」

足元をキョロキョロしながら私が言うと、

「とりあえず、登っていきましょう」

と雪さんが階段を指差します。

 

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江ノ島神社への階段を登り、そのまま広場を目指して歩き進めていきます。

遠足なのか修学旅行生なのか。小学生くらいのリュックを背負った子供達が、歓声を上げながら私達を追い抜いて行きました。

「今日はなんだか賑やかですねぇ。もしかしたら、そのせいで出て来てくれないかもしれませんね」

私が言うと、

「まぁ、とりあえず歩いてみましょ」

と雪さんが応えました。

 

 

 

私達が何を探しているかと言うと…。

江ノ島と言えば、江ノ島神社にたこせんべい、展望灯台江ノ島岩屋等、様々なイメージがあるかと思います。

ですが、地元民での江ノ島のイメージは『猫』なのです。江ノ島は別名『猫島』と呼ばれるくらいに多くの猫がいます。

 

江ノ島に猫が多い理由は、元からいた江ノ島の猫達を島民が地域猫として保護し、共存が始まったからなのだそうです。

江ノ島の路地裏に入ると猫が日向ぼっこしている光景は珍しくありません。恐る恐る近付いても人馴れしているのか、ここの猫は動じることなく撫で撫でさせてくれる事が多々ありました。

 

今日は、その猫に癒されたいという目的でやって来たのです。

 

 

 

サムエル・コッキング苑の広場に辿り着くと、あちこちでイルミネーションの取り付け作業をしていました。

「わぁ~すごい。これ、夜に見たらさぞ綺麗なんでしょうね」

試運転なのか、あちこちのライトが点灯されていましたが、昼日中に見てもやはり太陽の光に負けてしまっていました。

 

 

江ノ島シーキャンドル、展望灯台に辿り着きます。

 

 

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「ちうさん、これ登ってみます?」

「いやいや、無理っす」

見上げるほどの螺旋階段に尻込みしてしまいます。

結局少しだけ階段を上がり、テラス席を一周歩いて下りました。

 

 

やがて店屋の並ぶお岩屋道通りを歩きます。

「あっ」

私と雪さんが声を揃えました。

黒と白模様の猫ちゃんが、優雅に歩いていたのです。

「わぁ~いたいた」

私が嬉しくなって声をあげます。

 

「猫だ! わぁ~可愛い、おいで~」

小学生の女の子達がわらわら駆け寄っていくと、その猫は建物の隙間から逃げて行ってしまいました。

 

 

「あ~行っちゃいました」

私が残念そうな声を出すも、

「まぁ、見れて良かったじゃない」

と雪さんが笑いました。

 

そうですね、と私も笑います。

陽射しもあたたか。

車通りのない長閑な階段道。

親しいバイク女子さんとこうして並んで歩け、癒される存在に出逢えただけで、私は幸運なのかもしれません。

素直にそう思えました。

バイク聖地での洗礼~後編

次なる目的地は、栃木県那須塩原市にあるライダーズカフェ『BOBBY』さん。

 

広い敷地の駐車場と開放的な店内の空間、そしてボリュームのあるフードメニューが高評価のお店です。

ですが、ライダーズカフェと名乗るように、多くのライダー達が集まるのには、店主さんの人柄も大きく関係しているのだと私は思います。

ヨシさんは、私と出逢うずっと前からこのお店の常連さんで、店主さんとはとても親しくお付き合いを続けているようでした。

 

 

私がこのお店に来るのは今回2回目でした。

この日もやはりたくさんのバイクが停まっています。

私達は流れるように駐輪場にバイクを走らせ、空いているスペースに停めます。

「ふぅ。良かった、とりあえず目的地には辿り着けた」

ヘルメットを脱ぎながら私がそう零します。

「そうだね。とりあえず事故とかに遭わなくて良かったよ」

ヨシさんも頷いていました。

 

 

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「美味しい~」

「やっぱり最高だね」

ボリュームのあるハンバーガーに、舌鼓を打ちます。

パン生地も風味豊かで、齧るとジューシーなハンバーグから肉汁が溢れ出ます。挟んであるベーコンも、スーパーで売られているものと違い、ちゃんと燻製の香りが豊かでした。

 

 

「さて、と。帰りはまた同じルートにしようかな?」

ヨシさんがGoogleマップを見ながらルートを調べ始めました。

まだ来たばかりですが、なんせ神奈川にまで帰らなければならないのです。そろそろ帰路につかないと、今日中に帰るのは難しくなります。

「帰りも高速メインで走ろう」

「うん、そうだね」

フロントブレーキは使わないよう気を付けなきゃね、と言い合いました。

 

「じゃ、ご馳走様でした」

ヨシさんがカウンター内に挨拶すると、店主が出て来てくれました。

「ありがとうございました。お気を付けてお帰りください」

「はい、気を付けます。なんせ、彼女のバイク、フロントブレーキが利かなくなっちゃってまして」

ヨシさんは笑い話のようにそう言ったのですが、店主は表情を曇らせました。その会話を耳にした、他のお客様も心配そうな顔をして立ち上がります。

「何があったのですか?」

店主と、立ち上がって来てくれたその男性客のお二人が、私のセローを見に来てくれました。

 

私達は事情を話します。

「でも、帰りはずっと高速道路なので。フロントブレーキを使う機会もそんなにないと思います。気を付けて帰りますよ」

私が笑いながらそう言っても、お二人は心配そうな表情を崩しません。

 

 

「それは危険ですよ」

店主がそう言い、男性客も頷きました。

「ブレーキオイルがなくなってしまうと、強制的にブレーキがかかり続けてしまうんです」

「えっ」

私は、高速道路を走行中に意図しない急ブレーキがかかって、タイヤがロックしてしまう様を想像しました。

高速走行中での急停止なんて、自損事故だけで済めば僥倖です。それは周辺車輌をも巻き込む大事故に繋がりかねない恐れも充分にありました。

事態の深刻さに、自分の顔が青ざめていくのが分かります。

帰りの距離も長いのです。高速道路を使わない訳にもいきませんし、ブレーキオイルが一切漏れないという保証はどこにもありません。

そもそも残りのブレーキオイルがどのくらいなのか、目盛りを見ても分からないくらい減っていたのです。

 

「とにかく。このまま帰るのは危険です」

店主が、携帯電話を取り出しどこかに電話を掛けてくれました。行きつけの整備工場らしいのですが、残念ながらそことは連絡がつかないようでした。

 

 

どうしよう、と不安になりました。

なんせここは栃木県。私の自宅から200km近くも離れた場所に来ているのです。

いつもお世話になっているバイク屋さんも、神奈川県内までしか対応に行けないと言われていました。

 

 

「ブレーキオイルの交換をした事は?」

ふと男性客が、ヨシさんに向けて質問しました。

「ありません」

「ホームセンターに行けば、ブレーキオイルは売っています。とりあえずそれを買って、ここを」

セローのブレーキオイルポットのネジを指差します。

「外して、中に蓋があるのでそれも外して入れてみて下さい」

「そんな…素人がやって大丈夫なものなんですか?」

ヨシさんも不安気な表情をしています。

「空気を入れないようにと、あとなるべく零さないように気を付けながら注げばとりあえずは。応急処置ですが」

店主も言ってくれました。

ブレーキオイルはとにかく錆びやすいので、零れたらよく拭いた方がいいです、と言って一旦店内に入った店主が、新品のパーツクリーナーを差し出してくれました。

「そんな、いただけないです。お幾らですか?」

店主に言うと、

「いいからいいから」

とヨシさんに手渡しました。

 

 

「ありがとうございます。気を付けて帰ります」

「本当にありがとうございます」

私とヨシさんはお二人に何度も頭を下げて、お店を後にしたのでした。

 

 

近くのホームセンターに行き、ブレーキオイルを購入するや、言われた通りにブレーキオイルを注いで貰います。

初めてやる作業にヨシさんも緊張している様子でした。

「よし、とりあえずこれで満タンにはなった」

「うん、ありがとう」

いただいたパーツクリーナーでハンドル周りを拭いているヨシさんにもお礼を言いました。

 

 

帰りの高速道路ではヒヤヒヤしながら走っていました。

見たところ、ブレーキオイルの漏れはなさそうでしたし、メモリをみてもまだたっぷり入っています。

でも怖くて仕方ありませんでした。

 

 

無事自宅に着いた時には、安堵のあまり泣きそうになりました。

 

翌日バイク屋さんに持って行くと、「全く、適当なパーツを取り付けるからですよ!」とキツく叱られ、純正品のジータのハンドガードを購入する流れとなりました。

 

 

あの時。

危険な状況であると進言してくれ、解決方法まで享受してくださった、店主と男性客のお二人には感謝してもしきれません。

無事に帰宅出来たお礼をお伝えしたかったのですが、私は鍵垢だったので報告する術もなく、代わりにヨシさんから伝えてもらいました。

 

 

私は、ライダー同士の助け合いの精神はとても美しいものだと思っています。

屈みこみ、セローの汚れ具合を見ていただけで、

「どうかしたんですか? 大丈夫ですか?」

とバイクを寄せてわざわざ話し掛けてくださったライダーさんもいました。

また、ヨシさんとツーリング中、対向車線で往生しているバイクを見掛けると、

「何かあったのかも。ちうさん、Uターンするよ」

「おぉ、了解!」

となった事もあります。

 

 

この出来事をすぐにブログに書かなかったのは、トラブルのせいで気が乗らなかったから、という思いがあったからでしょう。

ですがこれも素敵な思い出だったと今なら思えます。

 

 

バイクに乗ってはや4年。

これまで無事故でやってこれたのは、多くの方々の助けと優しさに支えられて来たからでもあるのでしょう。

バイク聖地での洗礼~前編

それは今から3年前。

2020年11月18日。

私がバイクに乗り始めてちょうど一年が経とうという頃の事でした。

 

私とヨシさんは、高速道路を走らせ栃木へと向かいます。

「道は順調だね~」

「そうだねぇ。渋滞もしてないし良かった」

セローの走行速度に合わせ、左車線でのんびり走りながらそんな会話を交わしていました。

 

高速を降り、やがてのどかな田園風景の中を走り抜けます。

「もうすぐだよ~」

「うん」

唐突に、大きな鳥居が見えてきました。

そこは栃木県高根沢町にある安住神社、通称『バイク神社』でした。

関東住みのライダーならば一度は行ってみたいと願う、バイク乗りの聖地とも言える場所なのです。

 

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「わぁ~凄い凄い! ホントに来ちゃった」

バイク置き場に駐輪させながらはしゃいだ声を上げます。

中では、ヘルメットを被ったてるてる坊主の交通安全のお守りも販売されています。

「可愛い」

私は自分のと同じ赤いヘルメットのそれを選び購入しました。

 

「さて、じゃあ次なる目的地に向かいますか」

「はーい」

装備を整え、バイクの聖地を後にします。

 

 

国道16号線の道は順調でした。

片道が3車線もあり、今日は平日で空いていたのもあり、高速道路並みに他の車も速度を出しています。

「ここ、下道なのに高速道路みたいだねぇ」

と言いながら周囲の速度に合わせて走行します。

ですが、高速道路と下道とでは、決定的な違いがあるのです。

それは交差点。つまりは信号機がある事です。

 

 

前を走るヨシさんが黄色信号で速度を緩めたので、私も減速していき停止線に合わせて並んで停まります。

 

 

──あれ?

 

 

ほんの僅かですが、この時違和感を抱きました。

その正体が一体何なのか、自分でもよく分からなかったので青信号に切り替わるや発進しました。

セローの走りは順調です。

異音も異臭も発していません。気のせいだったのかな?と思い直していました。

 

 

やがて16号線を折れ、車通りの少ない通りに入ります。

そしてまた赤信号で停まったのですが、今度はハッキリ分かりました。

「ヨシさん! 待って、待って! フロントブレーキが全然利かない」

 

そう。

フロントブレーキのレバーを握っても、全くブレーキが掛からないのです。私は普段からリアブレーキで減速し、停まる瞬間だけキュッとフロントブレーキを握る習慣がありました。

神奈川から栃木までと長い距離を走って来たにも関わらず、ずっと高速道路だった為、停まる機会も少なかったのでブレーキの異変に気付きにくかったのです。

 

「え」

ヨシさんが路肩にバイクを停めたので、私も慎重にリアブレーキで減速して停まりました。

寒い時期だったので、ハンドルカバーも装着していました。ヨシさんはそれを丁寧に外し、ブレーキレバーの辺りをチェックしてくれます。

ヨシさんがブレーキレバーを握りしめると、ブレーキオイルがピューっと飛び出して来ました。

「ご、ごめん…」

「いや、ヨシさんが悪いわけじゃないよ。でもなんでブレーキオイルが出てきちゃうんだろ?」

よく見ると、ハンドルカバーの内側はオイル塗れになっています。いつからブレーキオイルが零れ始めていたのか、全く分かりません。

「あぁ、やっぱりこれだ」

ヨシさんが、ブレーキオイルポット近辺にあるネジを指差します。

「やっぱり、そのハンドガードが原因?」

「うん、多分そう」

 

つい先日。

中華製の安いハンドガードを買った私は、ヨシさんに頼んで取り付けて貰っていたのです。

取り付けるのに苦戦しながらヨシさんは、「これ、もし転倒したらブレーキに干渉しちゃうんじゃないかな…」と不安そうでした。

 

「ちうさん、最近転倒した?」

「うん。コケまくった…」

身に覚えがありすぎました。

数日前、セローミーティングに参加した私は、初めてのオフロードコースに笑っちゃうほどに転びまくったのです。

「じゃあ、多分その衝撃が原因でブレーキに干渉しちゃったんだね」

そして、

「ちうさん、工具出して」

「うん」

工具を手にしたヨシさんは、手際良く応急処置を施してくれました。

「これでブレーキオイルが漏れることはないけど…」

ただ、零れてしまったブレーキオイルはどうしようもありません。

 

「どうする? ここから目的地まであと20分くらいだけど」

このままツーリングを継続するのか今日のツーリングを取り止めにするのか、それを聞きたいのでしょう。

「行こう! せっかくここまで来たんだから」

私は即答します。

「分かった。じゃあ、一応フロントブレーキは使わずにね。停まる時はリアで慎重に」

「うん」

 

 

そうして、私達はツーリングを続行することに決めたのです。

フロントブレーキが使えないならリアブレーキを使えばいい。急停止が必要になるような危険な運転はせず、慎重に走って行けば大丈夫。

 

 

この時の私達はそのくらいの認識でいました。

ですが、それは知識不足からくる甘い考えだったのです。