シフトアップのその先へ

最高の相棒と、どんな道も、どこまでも

闇中の迷路~前編

父と母、兄と姉、そして私の5人の家族は、グループLINEで繋がっています。

 

それぞれ離れた場所で生活していますが、庭の花が綺麗に咲いたよ、と母が画像を送ってくれたり、姪や甥が何年生になり、これこれができるようになった、と姉からほっこりした報告が来たりしながら細々と繋がっていました。

 

 

ですが、私が離婚を決意したことをそのグループLINEに投下した時には、当然ですが激震が走りました。

私は努めて冷静に、年代別に何があったのか、現在の状況がどうなっているのかを手短に説明します。

それを読んだ家族の反応は様々でした。

姉『クズ!なにその最低男!』

母『私の可愛い娘と孫を苦しめた◯◯(夫)は絶対に許せない!』

そして父からは。『17年間も、よく一人で頑張ったね。もう何も心配しなくていいからね』と優しい言葉をかけてもらえました。

寡黙な兄からは何も言われてきませんでしたが、後日、高級肉が送られてきたので、兄なりの労りがあったのでしょう。

 

 

一月に離婚調停の申し立てをして、実際に第一回目の調停が行われたのは四月となりました。

 

案の定と言うべきでしょうか。

一回目の調停で夫は、自分の借金の正当性ばかりを声高に主張するばかりで、全く話が進まなかったのです。

離婚に応じるのか応じる気がないのか、それすらもハッキリしてくれません。

借金で使ったお金では家族も楽しんだ筈だ。だから家族にも責任がある、と言われた時には流石に頭に血が登りました。

 

 

その調停の後からまた具合が悪くなり、睡眠導入剤を服用しても眠れなくなり、目眩や吐き気もひどくなりました。

気が遠くなり、倒れそうになりかがみ込む事もあります。

もしこれが、通勤時のバイク運転中や仕事でのプレス機の作業中だったら。そう思うと怖くなりました。

今の自分は果たして、働いていてもいい状況なのでしょうか。

不安になり心療内科に診察に行くと、今度は3ヶ月間の休職を言い渡されたのです。

二度目の休職は、職場でもさすがに浮かない顔をされてしまいました。

 

 

タロウは、「ゆっくり休むといいよ」と背中をさすってくれましたが、私は不安で押しつぶされそうでした。

 

 

「セローのメンテナンスをしに来たよ」

そんな時、ヨシさんが両手にバイクのメンテナンス道具を抱えてやって来てくれました。

「セローのキーだけ貸して。ちうさんは部屋で休んでていいから」

うん、とキーを渡しながら頷き、本当に私は部屋に籠らせてもらっていました。

しばらく作業していたヨシさんは、終えるとキーだけ返しに来て、「じゃ」とそのまま帰って行きました。

その背中をぼんやり眺めながら、本来ならセローのメンテナンスは私がしなければいけない事なんだよなぁ、と思いました。

カバーの掛けられたセローを見遣ります。

私の胸中には、メンテナンスどころかあのカバーを外してあげる気力すらも湧いてきません。

あれに跨り楽しく走り回っていた過去の記憶なんて、遠い昔の御伽噺のようにしか感じられませんでした。

 

今やバイクの存在は、罪悪感と夫からの攻撃材料の象徴でしかなくなっていたのです。

 

 

母や姉からは、毎日のように電話が来るようになりました。

ちゃんと眠れているの? 具合はどう? 辛くはない?

私はどれも曖昧に答えるばかりでした。

ひどく眠い日もあれば一切眠れない夜もあり、具合がどうなのかは自分でも分かりません。そして、夫にされて来た事や夫の主張を思い起こすと、悔しくて悲しくて胸を掻き毟りたいほどの衝動に駆られる事もありました。

 

 

後から聞いた話ですが、この頃の私は電話やLINEのやり取りですら明らかに不安定だったらしく、衝動的に何をしでかすか分からない、と危惧されていたくらいだったそうです。

 

 

そうして6月。

二回目の調停が執り行われます。

 

夫の主張は相も変わらず一方的で、そしてお金に意地汚く貪欲でした。

子供のいる世帯に給付されたコロナ特別給付金の10万円が、世帯主である夫の口座に振り込まれたので、その支払いを求めました。

息子がいるのは私の世帯の方だからです。

ところがこれに夫は猛反発します。自分は世帯主なんだから当然貰う権利がある! と。

では、こちらに払ってくれなくても構わないから、せめてその10万円を息子の高校の学費に充てて欲しい、と主張しました。息子のことで使ってくれるのならば、私には何の不満もなかったのです。

ですがそれすらも断固拒否されます。

高校の学費は、親権を主張している私が一人で払うべきものだと言い、挙句、自分の方が収入が多いのだから、給付金は当然こちらが受け取る権利がある、と主張してきたのです。

「え。ちょっと、何を言っているのか分かりません…」

調停員さんが伝えてきた夫の言葉に、こめかみを揉みます。

コロナ給付金は、世帯収入で給付額が決められた訳ではありません。あくまで『子供のいる世帯』に、一律で給付されたものの筈です。

私がそれを調停員さんに指摘すると、

「いえ、私も意味がよく分からなかったのですが…」

と首を傾げていました。

 

 

目先のお金に目がくらみ、それを得るためならば筋の通らない持論だろうと無理やりにでも展開させ、駄々を捏ね、こちらが疲弊しそれを受け入れるまで押し通してくる。

結婚生活中と全く同じ事を、調停の席でも夫は続けていくようでした。

 

 

ともあれ。

こんな10万円の給付金ですら意地汚いやり取りが続き、離婚の話し合いは一向に進まないまま貴重な二回目の調停も終わってしまったのです。

 

 

そして気付いたのです。

私とタロウが家を出てから半年が経ちます。弁護士や調停員を挟んでいるとはいえ、やり取りも続けています。ですが、ただの一度たりとも「息子は元気でやっているのか」「息子はどう過ごしているのか」と夫は聞いて来ていないのです。

当然、息子に直接の連絡もありません。

 

 

私は、夫は配偶者としては最低だったのだとしても、息子に対してだけは最低限度、父親としての自覚があるものなのだと思っていました。せめて情があるのだと。

でも実際に別居し、こうして離婚調停を重ねるほどに、それすらも皆無だったことがハッキリ分かってしまったのです。

給付された10万円を、息子の学費に充てることすら拒むくらい、息子のことなど考えていない人だったのだ、と。

 

 

ならば、私が『息子の為に』と耐えてきた17年の結婚生活は一体何だったのでしょう。

考えるほどに虚しくなっていきました。