シフトアップのその先へ

最高の相棒と、どんな道も、どこまでも

私がバイクに出逢うまで~最終章

息子、タロウという人間が、中学から高校に至るまでにどういう成長を遂げ、どのように感じ、どのような心境で過ごしてきたのか。

同じ家の中で暮らし、自身の『宝』と認識しながらも私は、ほとんど斟酌して来ませんでした。

 

 

だからこの日。

夫が出かけた休日の朝、

「タロウ、ちょっといい? 話があるんだけど」

と持ち掛けるだけでドキドキしてしまいました。

「はぁ?」「面倒臭いんだけど」と反発されることすら覚悟していましたが、息子は静かに「うん」と頷き、ダイニングテーブルの向いに腰をかけてくれます。

ワイヤレスイヤホンをしていない息子と、まっすぐ対峙するのはすごく久しぶりの事でした。

「今の家庭の状況について、タロウはどう思う?」

「どう、とは?」

質問が抽象的過ぎました。私はゆっくりと続けます。

「お父さんに借金があるのは知ってるよね? 私はその返済に協力するって決めていたけど、今借金額がどのくらいで、うちの収支がどうなっているのか、全く把握出来ていない状況なんだ」

タロウがじっと見返してきます。

「正直、私はお父さんとの関係に限界を感じている」

タロウの目が見れず、たまらず視線を逸らしてしまいます。

「でもタロウにとって、あの人は唯一の父親だし、家族が離れ離れになるのは辛いことだと思って…」

そこまで話すと、息子がリビングの機器類に目を遣ります。

「そのテレビ」

鎮座している大型テレビを指さし、タロウが言いました。

「調べたんだけど、30万くらいするやつだった」

知ってた? とタロウに聞かれ、知らなかった、と首を振ります。前のテレビが、別に壊れた訳でもないのに夫が買い替えた事だけは認識していました。

「あとその最新のゲーム機器も、6万円だったよ。数ヶ月前に買った一眼レフカメラは20万。それと先日彼が買ってきたそのヘッドホン、4万8000円」

この数ヶ月、最新の機器類がどんどん増えていっていたのは把握していましたが、もはやそれがどのくらいの値段で、どういう購入方法で入手した物なのか、私は考える事すら放棄していました。タロウは一つ一つを調べていたようでした。

「彼が」

私はここでようやく、息子が自身の父親を『彼』呼ばわりしている違和感に気付きました。

「ちゃんと借金を返しているようには思えない。心を入れ替えたようにも見えない」

平坦な声でそう言った後、

「離婚は妥当だと思う」

と静かに言い放ちました。

 

 

世界観がガラガラと崩れ落ちる、とはまさにこの事でしょう。

とうの昔に崩壊していた家庭だったのでしょうが、唯一息子の為にと留まっていました。当の息子本人から離婚を促されたことで、一気に気持ちが解放されたのです。

 

私が離婚を、現実的に考え始めた瞬間でした。

息子がどちらに付くかは分かりませんが、選択肢を持たせる為にもやはり正社員になりたいと思いました。

 

 

パート先の上司に事情を話します。

上司は「残念ですが、そういう事情でしたら仕方ないですね。いい所に転職できるといいですね」

と返してくれました。

 

何十社と応募し、大多数の企業から書類選考で落とされました。なんとか面接まで漕ぎ着けても、良い返事は中々貰えません。

それでも粘り強く就職活動を続け、ようやく、「是非、我が社に」と言ってくださる企業が現れたのです。

パート先の皆さんからあたたかく送り出されながら、いよいよ始まるんだ、と気を引き締めました。

 

 

「タロウはどうしたい?」

その頃には、私とタロウは夫の目を盗んで何度も何度も話し合いを重ねていました。

「私は正直、あの人との冷静な話し合いは無理だと思ってる。『別れるなら死んでやる』って泣かれるのが目に見えてるからね。あの人から気付かれないように逃げて、後でゆっくり離婚話を持ちかけるしかない。もしタロウが私と一緒に来てくれるつもりなら、その時一緒に逃げないといけない」

もちろん、夫の元に残りたいと言うのならそれを尊重するつもりだし、離れたとしても母親として最大限の支援はしていくつもりだよ、とも伝えます。

「俺は」

タロウの瞳が揺れました。

「もっと学びたい事があるから、大学には行きたいと思ってる」

「うん」

「それが可能となる環境の方に行きたいと思う」

「うん、そっか。分かったよ」

息子にはまだ学びたい事もあり、将来の夢もありました。

どんな立場からであれ、それを叶える応援をしていきたい。そう思いました。

 

 

正社員としての新しい仕事は大変でしたが、一つ一つを丁寧に覚えていきました。

「私さんは頑張るねぇ。大丈夫?疲れない?」

そう聞かれても、ありがとうございます、全然疲れてません!と元気に応えるのでした。

こんな私を、今この状況で採用してくれた会社には、感謝しかありませんでした。

 

 

休日には、物件を見て回ります。それと同時に、弁護士も探し始めました。

そんな折り、

「お母さんについて行く」

タロウがそう言って来ました。唐突な言葉に私は、「へ」と鳩が豆鉄砲食らったような声を出します。

「お母さんと出ていくよ」

「ありがとう。でも」

私と来ると、大学進学は難しくなるかもしれない。会社の初任給が、思ったよりも少なかったのです。

「俺、昨日アイツと話したんだ」

息子は昨日、父親がまた数万円の電子機器を買って来たのを目にし、たまらず「お金は大丈夫なの?」と聞いたのだそうです。

息子からその質問をされたのは、夫にとっては初めての事だったはずです。ですが夫は「大丈夫だよ」と鬱陶しそうに応えるのみでした。

「うちの借金はどうなってるの? 」と息子はめげずに質問しました。

息子にとっては深刻な問題です。自分の進学もかかっていますし、父親と母親、どちらに付いて行くかで人生も変わってしまいます。

ところが夫は、

「借金?お前が大学入る頃までにはなくなってるんじゃねえの?」

知らんけど、と、まるで他人事のように笑って答えたのだそうです。

 

「アイツさ、借金発覚したばかりの頃自分で言ってたじゃん。『一年半で完済する』って。もうあれから何年経ってる?」

「…二年半」

確かに。

夫は一年半で完済すると豪語していたのです。一年半、つまりタロウが高校入学の頃までには、と。だからこそ私も協力しました。

でもタロウが高校に入学する時、「俺には借金があるから払えない」と言い、高校の学費は全て私に払うように言ってきました。そしてそれが、大学まで、とまた延びているようでした。

 

「アイツは信用出来ないよ。俺、奨学金とか色々使って進学する。アルバイトだってやるよ」

タロウは私に手を伸ばして、ハッキリ言いました。

「一緒に出よう。貧乏だって大丈夫だよ、二人で一緒に頑張ろう」

「うん…。うん!」

涙が止めどなく流れ落ちました。

 

 

 

私と息子は、それぞれ三行半の置き手紙を残し、ひっそりと引っ越していきました。

その後、弁護士経由で離婚届けをつきつけます。離婚理由は『長年に渡る経済的DVによる夫婦関係の破綻』。対して夫は、『事実無根の言いがかり』としてこれを認めず、事は離婚調停にまで発展しました。

『夫婦なのだから、借金を協力して返すのは当然のこと』との主張に、思わず失笑してしまいました。

 

調停期間は、10ヶ月にも及びました。

長い戦いに気が遠くなりそうでしたが、2022年11月をもって、ようやく離縁する事が出来たのです。

 

分与し合う財産の一つもない、17年に及ぶ結婚生活の終焉でした。

 

 

タロウとの二人暮しは穏やかです。

築年数の経った木造アパートのため、しょっちゅうゴキブリが出た、ヤモリが入ってきたと二人で大騒ぎしていますが、笑いながら仲良く暮らしています。

 

高校3年生になり、受験勉強まっさかりの11月初旬のこと。

第一種奨学金、つまり返済不要な給付型奨学金の決定通知書が届いた時には、二人でハイタッチして喜び合いました。

給付型奨学金は、世帯年収が低所得である事のみならず、本人が勉学に励み、かつ成績が一定水準以上と認められない限りは審査が通りません。

あれほどまでに劣悪な家庭環境だったにも関わらず、それに倦むことなく、なんの言い訳もせず、ひたすら勉学に励んできていた息子を誇りに思います。

 

 

この子を産めて良かった。

辛かったけれど、本当に苦しいことばかりだったけれど、育てて来れて良かった。

息子の母親である事を、私は心の底から感謝しています。

 

 

 

「さて、ちうさん。まだお昼過ぎだけどもう帰りますか」

ヨシさんが、帰りのルートを確認しながら言ってきます。

「あ、それとももうちょっと走りたい?」

「ううん」

私は笑いながら首を振ります。

「早くお家に帰りたい」

「お、いいねぇ。その言葉が聞けると嬉しいよ」

思わず笑みが溢れます。

帰りたくない、と散々嘆いていた時代が懐かしいです。

「じゃあ行きますか~」

「はーい」

エンジンを始動させ、セローのアクセルを捻ります。

 

 

街灯のない、真っ暗い峠道もあるでしょう。

舗装されてない凸凹の悪路も、周囲の車に圧倒されながら走る高速道路も。

まわり道もある、通行止めだってある。

でも、大丈夫。

その進み続けた先にはきっと、次なる未来が待っています。

 

 

私はバイクが大好きです。

だからこそ、現実逃避の道具なんかで終わらせたくはありません。

これから、私の『本当の』人生が始まります。

 

さあ、走ろう。

 

私のバイクライフは、まだ、始まったばかりなのですから。