世の中には大型のバイクショップや量販店が多数点在していますが、私がセローを購入したのは街の小さな小さなバイク屋さんでした。
そのバイク屋さんは徒歩で行けるほどの近所にあり、二輪免許取得前の教習所時代から何度も通わせていただいていました。
バイクが欲しいけれどどの車種にしようか迷っている、教習所での一本橋が怖くて攻略できる気がしない、等、まだ顧客ですらない私の悩みに耳を傾け、じっくりアドバイスして下さる優しい店主でした。
当時バイクを勧めた友人からは、どうせ初心者はバイクを転すだろうから、最初のバイクは中古で安く買った方がいい、とアドバイスされていました。
私もそのつもりでいたのですが、そのバイク屋の店主と話していくうちに、新車の方がいいのかもしれないと段々思うようになったのです。
初心者のうちは車体の異変に気付くのも難しく、トラブルに対処するのにも不慣れです。
まして私は女性です。力も弱く、メカニックの整備が出来るような技能もありません。
新車を購入し、そのバイク特有の『本調子』を知った上で乗り始めれば、大きなトラブルが起きる前の異変にも気付きやすいでしょうし、そもそも車体のトラブル自体が最小限で抑えられる、と言われました。
ですが、新車を購入する一番の決め手となったのは店主の言葉でしょう。
「まっさらな新車に、自分だけの癖が刻まれていくんです。素敵だと思いませんか?」
中古車にはどうしても、前の持ち主の癖が染み込まれているのだとか。
私は、せっかく購入するのならば、私だけの癖を愛車に刻んでいきたい。そう思うようになりました。
二輪免許を取得したその日のうちに、バイク屋さんに行ってセローの購入手続きをします。
納車の日、店主は、
「ちょっとした点検や気になることがあったらいつでも来てください」
そして、シートを撫でながら言いました。
「正直、うちから送り出すバイクは僕にとって『我が子』同然なんです。気軽に顔を見せに来てくれるだけでも嬉しいです」
そう言っていただけて心から感謝しましたし、また、まだ不慣れなこの車体を一緒に思いやってくれる人がいる事に、心強さも感じました。
乗り始めてすぐ、やはり立ちゴケしてしまいました。
ミラーが外れ、スクリーンがひび割れて飛んでいってしまうくらいの派手なコケ方でした。
その時はよりにもよって、千葉の最南端までソロで行っていたのです。私はミラーをセロテープで固定し、スクリーンをリュックにしまって半泣きで帰って来ました。
翌日バイク屋さんに持って行くと、
「あ~やっちゃいましたか」
と苦笑し、手際よく外れたミラーを取り付けスクリーンのひび割れ部分を削り取って、元の場所に取り付けてくれました。
ですが、ハンドガードや車体自体に出来た擦り傷はそのままです。
「まぁ、これからも転ぶと思うので。これはこのままにしておきましょう」
と笑われました。
正直、新車で買ったバイクにたった一ヶ月足らずで擦り傷を作ってしまった事に、私は少なからぬショックを受けていました。
本当ならすぐにでも直して貰いたかったのですが、店主の言う通り、その後何度もコケる事になったのです。ダートを走るようになったからというのもあるのでしょう。
上達してコケなくなったら直して貰えばいいやと思うようになり、やがて段々傷が気にならなくなり、最終的には直す気持ちもなくなりました。
その傷もいい思い出だと思えるようになったのです。
バイク屋さんへは、車両点検やオイル交換等で店を訪れる度、奥のテーブル席へと案内され、お茶やお茶菓子を出してもらってました。
整備をしながら、最近はどんなツーリングをしているんですか?と世間話のように聞いてきます。
それは私がどんな道を走り、どんな乗り方をしているかを聞く事で、少しずつ点検箇所や整備の仕方を調整してくれる為だとも気付いていました。
店主の言った通りでした。
新車の状態を知っているからでしょう。
ブレーキオイルの漏れや、僅かなエンジン音の差異、クラッチペダルのオイル不足、ブレーキのかかり具合等、異変が生じたらすぐに感じ取る事が出来ました。
その都度バイク屋さんに行くと、快く点検して整備をし、試走までして確かめてくれました。
そんな店主とは、あまりプライベートな話はしてこなかったのですが、離婚が成立した時だけはその事を報告しに行きました。
セローの車両登録をしてある、姓名と住所の変更手続きを取ってもらうためです。
「そうなんですね…。承りました」
店主は神妙な面持ちで頷いた後、ハッとしたように、
「あっ! まさかバイクが原因で、ですか?」
と聞かれ、思わず吹き出してしまいます。
私がバイクを乗り回した事で夫婦関係が悪くなり、離婚に至ったのかと思ったようです。
「いいえ、違いますよ」
笑って答えました。
数ヶ月後、リアブレーキパッドの交換に行った際。店主は作業をしながら、
「私さん、バイクは何年目でしたっけ?」
と聞いてきました。
「4年目です」
即答しておきながら、もうそんなに月日が経ったのか、と自分でも驚きます。
初心者気分の抜けない私にとって、納車はつい昨日の事のように感じられるのです。
「凄いですね…」
店主が、セローのチェーンを引っ張りながら言いました。
「このチェーン、こまめに掃除して油を差してるんでしょうね。まだまだ使えそうです。早いと、2年ほどで交換になるんです」
「そうなんですか?」
店主のアドバイス通り、こまめにチェーン掃除をしてきましたが、放置しておくと寿命がそんなにも短いだなんて知りませんでした。
「車体も、ツーリングの度に洗車してくださってるのが分かります」
正直、と店主が続けます。
「女性ですし、初心者ですし。乗り始めたらすぐ飽きられるかもしれない、っても覚悟してたんです。でも走行距離もそこそこあるのに、こんなに綺麗にしてもらえて、メンテナンスもしてもらえて。大事に乗ってもらえてるようで嬉しいです」
その言葉に胸が熱くなりました。
バイク初心者だった私と、まっさらな新車だったセローが共に歩んできた軌跡。
私も、そしてセローも。傷だらけになりながらも、色んな道を走り抜けて来ました。
色んな道を走りたい。少しでも長く、大事に乗り続けたい。
そんな想いを、ずっとセローを整備してきた店主から理解していただけたことが、何より嬉しかったです。
山形に引っ越すことを告げると、
「そうですか。淋しくなります…」
と呟かれました。
それは私に向けてというより、新車時代から知っている『我が子』セローに向けての言葉のように私には思えました。
こんなに私の車体を気にかけ、メンテナンスしてくれるバイク屋さんが、果たして故郷にもあるのでしょうか。
大きな不安を抱きますが、引越しはもはや決まった事です。
初心者だった私と、まっさらな新車だったセロー。
新しい環境の変化と共に、何かしらの進化を遂げなければいけないのかもしれません。