荒崎公園は「かながわの景勝50選」に指定された、三浦半島でも指折りの景観を誇る公園です。
私は二輪免許を取得してから、何度もこの公園に走りに来ていました。ここへ来るまでの道のりが楽しいのと、この公園そのものが魅力的だからです。
私とヨシさんはハイキングコースを歩き、階段を降りて岩場に足を踏み入れます。
「すごい、洞窟になってる」
ヨシさんが空洞になっている岩場を眺めて言いました。
先程購入したコーンポタージュの缶を並べて写真を撮ります。
反対側では釣りをしている人がちらほらいました。
「人がいるってことは、あっちまでは歩けるみたいだね」
ヨシさんが岩場をどんどん進んでいきます。
私も足元に気を付けながら慎重に付いて行きました。
岩場の途中からまた階段があります。
階段を上り、橋に差し掛かると波の動きが良く見えました。
「波が押し寄せてさ。引いていく時に砂がサーっと動いていくじゃん?」
それ見てるのなんか楽しいんだよね、と波打ち際を指差しながらヨシさんが言うので、私も波の動きをよく観察しました。
「確かに」
波が引くと、少し遅れて砂がサラサラと流れていきます。
「小さい頃、砂時計眺めるの好きだったからかなぁ」
ヨシさんの言葉に、私は無言で砂の動きを眺めていました。
今日の海は至って静かです。
静かに流れ着く波の音は、『ザザッ』というよりも『ちゃぽん』としていました。
波が岩にぶつかるたびに、ちゃぽん、ちゃぽんと音が鳴ります。それがそこかしこで鳴っている為、まるでヒーリングミュージックみたいだと感じました。
冬とは思えない陽気を感じながら、辺りを見渡します。
「何度も来てるけど、やっぱりすごい光景だよね、ここ」
切り立った岩が活断層のように尖って重なり合っています。
「この地形は波の影響なのかな?」
私が問うと、
「うん、きっとそうだよ」
ヨシさんが答えました。
「水の力は凄いからね」
静かにさざめく波を眺めていると、この穏やかな水達にそんな力があるだなんて、とても想像がつきませんでした。
「おぉ~いいねいいね。富士山もバックに撮れた」
帰りの海沿いに、入っていけそうな砂利道を見付けたのでそこでバイクを並べて写真を撮ります。
「こういう場所に入って来れるのも、セローならではだね」
と言い合い、その場を後にしました。
カフェに入ると、テーブル席に置かれているのはモーニングメニューでした。時刻はまだ午前10時です。
私はフレンチトーストをゆっくり味わいながら「ん~至福!」と頬張ります。
「あ、そう言えばさ」
ヨシさんが、カフェラテを飲みながら言ってきます。
「今度の休み、アメリカン仲間達と一緒に走る事になった」
「あ、そうなんだ~? いいねぇ。楽しんで来て」
バイク歴はアメリカンが主体だったヨシさんは、アメリカンバイク仲間が沢山います。
セローが子供に見えるほどのゴツいバイクに跨り、革ジャンやサングラス、ドクロ模様のTシャツにシルバーアクセサリーというイメージですが、彼らは至って気のいい、心からバイクを愛する陽気なライダー達なのも私は知っています。
複数台で走る為のルート決めや美味しいお店のリサーチ、映える絶景スポットの巡り方等、企画を立てるのが上手い人も多いらしく、オフ車とはまた違った楽しみ方があるんだろうなぁと話を聞いて思っていました。
一時期私はヨシさんに、私の『お守り』ばかりをさせているようで申し訳ないと考えていました。ヨシさんが色んなバイク仲間の方々と楽しんでくれるようになって、本当に良かったと思っています。
『じゃあ気を付けて帰ってね~』
「うん、今日はありがとう」
手を振り合って、流れ解散になりました。
「ただいまぁ」
ヘルメット姿のまま玄関ドアを開けると、「おかえり! ねぇLINE見た?」と息子のタロウがニコニコしながら聞いて来ます。
その笑顔にはなんだか既視感がありました。そう、水泳教室で進級した時、逆上がりが出来るようになった時、テストで満点を取った時。ちょっと得意気ではにかむようなその笑い方。
「え、LINE? ごめん、バイクを運転してたから見てなくって…」
ヘルメットを脱いですぐにスマホを確認するや、息子からのLINEに『合格』の二文字が飛び込んで来ました。
「あっ。受かったの?」
「うん」
「わぁ~おめでとう!」
抱きつこうする私をサッとかわし、
「まぁ、本番はまだこれからだけどね」
とタロウが返しました。
第一志望校は国立大学で、その試験はまだ先なのです。
予備校はおろか、塾や家庭教師すらつける余裕のなかった我が家にとって、「浪人は無理だ」と伝えてありました。
「うん…。受験したとこが全部落ちたら、お母さんと一緒に山形行くよ」
とタロウは力なく笑ってそう応えたのです。
それでも理系の国立大学を目指すタロウの意思は強固で、独学で必死に学び、『最低でも5校は受験した方がいい』と先生からアドバイスされたにも関わらず、たった3校しか受験の申し込みをしませんでした。受験料を気にしての事なのでしょう。
全滅したら大学生になることすら諦めるしかなかった状況で、滑り止めとはいえ私立に無事合格出来たのは、確かに嬉しいニュースでした。
「これで春からめでたく大学生になれることが確定したね…」
感慨深く私が呟きます。
家庭環境の愚痴も漏らさず、倦む事も諦める事もなく勉強に励んできた息子の努力が実った事が、純粋に嬉しく感じられました。
「うん。とりあえずホッとしたよ」
と笑うタロウを見て、今日見て来た波の揺らめきを思い出します。
大学に受かってくれたのは心から嬉しい。
だけど…。
息子と一緒に山形に帰れたらと、心のどこかで願っていた自分がいたのもまた事実なのです。
大学生になる事が決まった今、春から離れ離れになる事が決定されました。
澄んだ海水は静かに岩にぶつかり、ぽちゃん、ぽちゃんと癒しの音を立てます。
でもその水の流れが、長い長い年月をかけて硬い巌をも侵食させてしまうだなんて、一体誰が想像出来るでしょう。
時間を止める事は誰にも出来ません。
私の人生の中で、最も穏やかで幸福に満ちていた息子との二人暮らし。それが、もう間もなく終わりに近付いています。
──ぽちゃん、ぽちゃん。
あの心地よい波の音を脳内で反芻させながら、少しずつ、でも確実に形を変えていってしまう事物の摂理に、私は複雑な思いを抱いたのでした。